
便利さの裏で見えなくなった“命”のこと
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「命をいただく」ということ
私たちが生きているこの時代は、「飽食の時代」とも言われます。
コンビニやスーパーに行けば、年中いつでもお弁当やおにぎり、お菓子やパン、お惣菜が並び、選びきれないほどの食品であふれています。便利で、簡単で、手軽。だけど、その反面、「命をいただく」という意識は、どんどん薄れているように感じます。
「美味しかったらそれでいい」
「とりあえず栄養がとれればOK」
そんなふうに、食事をただの「作業」や「効率」で済ませる人が増えているのではないでしょうか。
「食育」という言葉が生まれた背景
私が大学生だった約20年前、「食育」という言葉が注目され始めました。
栄養教諭制度ができ、学校でも「食」の教育に力を入れるようになったのは、まさにこうした“食への無関心”が広がっていたからだと思います。
でも、じゃあ今の社会が変わったかといえば…
むしろ、情報化社会によって知識は得やすくなったものの、本当に必要としている人には届いていないように感じます。SNSで発信される食の情報も、見ているのは興味のある一部の人だけ。
興味のない人は、とことん興味を示さなくなっているのが現状です。
魚の切り身を見て「魚」と思う子どもたち
今の子どもたちの中には、「魚の切り身=魚の形」と思っている子もいると聞きます。
加工された食品が多く、原型を知らないまま食べる機会が増えてしまった結果、命の重みを感じることなく、ただ“食べる”という行為だけが残ってしまう。
それでは「ありがたさ」も感じられないし、当然「いただきます」の意味も伝わりにくくなるはずです。
自然とともに生きてきた祖父母の姿
私は田舎で育ちました。
祖父や祖母が畑で野菜を育てていたこともあり、土に触れ、虫と出会い、季節の変化を感じながら暮らしていました。
土の中にはたくさんの微生物がいて、草木一つひとつにも命があります。
太陽の光、雨、風、空気――自然のあらゆる力があって、初めて命が育つ。
海の中だって、プランクトンや海藻、魚たちの循環がある。
そう、すべての命はつながっていて、私たちの食卓に届くまでに、多くの命と人の手が関わっているんです。
「いただきます」に込めたい想い
私たちが何気なく口にしている食べ物は、「命をいただいている」ということ。
だからこそ、「いただきます」「ごちそうさま」は単なるあいさつではなく、命への感謝を込めた祈りの言葉として、大切にしたい。
毎日の食事で手を合わせる、その一瞬にでも、「ありがとう」の気持ちを込めること。
それは、ただ栄養をとるためだけじゃない、“心が満たされる食事”につながっていく気がします。
最後に
食べることは、生きること。
そして、生きるということは、誰かの命をいただいて、命をつなぐということ。
豊かすぎる時代だからこそ、私たちは「命とともにある食べ方」を、もう一度見つめ直してみたいですね。